【シリーズ】秘匿怪談 第1~3話

第1話 分離

休日の昼下がり、郁恵さんが自宅アパートでこんな体験をしたという。
リビングに敷かれたカーペットの上に横たわり、録り溜めしていたドラマを観ていたのだが、窓から届く陽気がぬくぬくと心地よく、うとうとするうちに寝入ってしまう。
それから一時間ほどして、玄関口で鳴ったチャイムの音で目が覚めた。
寝ぼけ眼を擦りながら起きあがって向かうと、宅配便の配達員だった。
荷物を受け取り、再びリビングへ戻る。
すると自分が寝ていたカーペットの上に、何やら黒くて大きな物が横たわっているのが見えた。一瞬、それが何であるのか分からなかったのだが、分かるや否や、思わず我が目を疑ってしまう。
それは人の形をした影だった。
テレビの前へと横たわる恰好で、厚みのまったくない、薄黒い色をした影だけが微動だにせず、窓から燦々と陽光が降り注ぐカーペットの上を不気味に暗く染めている。
位置といい姿勢といい、影はつい今しがたまで、自分が寝ていた時と寸分違わぬように思えた。
「まさか……」と思って、視線を自分の足元へ落とす。
そこには陽光に照らされたカーペットの生地が見えるばかりで、影は微塵も浮いていなかった。
はっとなって肩越しに背後の足元も覗いてみたが、やはり影など欠片も見当たらない。
おたおたしながら再び視線を前方へ戻すと、テレビの前では相変わらず、薄黒い色をした影が微動だにせず、横たわっている。
どうしたものかと思うよりも先に、気付けば身体が勝手に動いていた。金切り声ををあげつつ影に向かって走りだし、そのまま飛びこむような勢いで影の上へと身を投げだす。
続いて影の形にぴたりと身体を合わせて寝そべり、身体に影を貼り付けようと、必死になって身を捩る。
影は初めのうち、染みのように固まって動かなかったが、真上でごろごろと寝返りを打ったり、手足をばたつかせたりを繰り返しているうち、ようやく自分の動きに合わせて動くようになった。
一度動きが合わさると、あとは立っても座っても二度と自分の身体から離れることはなくなり、怪しいそぶりを見せることはなかったのだけれど、それでもそれからしばらくの間、郁恵さんは影の様子が気掛かりで堪らず、片時も目を逸らすことができなかったという。
第2話 万華鏡

珠緒さんが、中学時代に体験した話だという。
休日の昼間、母とふたりで近所の神社で開かれている縁日に出かけた。
境内には参道の両脇に沿って、たくさんの屋台が並んでいる。
綿菓子や林檎飴を買ったり、金魚掬いに興じたり、気の向くままに屋台を覗き回って楽しむ。
人波で賑わう参道を歩き回っていると、そのうち民芸調の雑貨品がずらりと並ぶ店を見つけた。
真っ赤な敷布の上にダルマ落としやケン玉、張り子の虎など、レトロでアナクロな風情を醸す品々が所狭しと並んでいる。
珠緒さんはその中に万華鏡を見つけた。
白髪頭の老いた店主に許可をもらい、万華鏡を手に取って覗き穴を片目に近寄せる。
筒の中では無数の菱形に区切られた鏡が蜂の巣状に連なり、鏡面には笑みを湛えた自分の顔がぐるぐると角度を変えて、無数にひしめき合っている。
摩訶不思議な光景に思わず頬が緩んで、くすりと鼻を鳴らす。
けれどもそこで「あれ?」と思ってしまった。
覗き穴から見える自分の顔は、こちらが笑みを浮かべる前からすでに笑っていた。
さらに加えて、異様なことにも思い至る。笑顔が云々以前に、そもそも覗き穴に片目を寄せた自分の顔が、内部の鏡に丸々映るはずなどないのである。
ますます不審を感じて覗き穴から目を離し、隣にいる母に向かって事情を話す。
すると母も怪訝な色を浮かべて、「確かにそれは変だよね」と言った。
珠緒さんも「だよね」と口を開きかけたのだけれど、そこへ母がさらに言葉を付け加えた。
「大体、万華鏡ってそういうものじゃないからね」
母が語るには、筒状に作った万華鏡とは本来、内部に初めから仕込んである幾何学模様などを眺めて楽しむ物であり、覗き穴のほうから何かを映す物ではないのだという。
確かに言われてみればその通りだと思い、今度は背筋がぞわりと震えた。
恐る恐るもう一度、覗き穴へと片目を近づけてみる。
小さな穴から見える万華鏡の内部には、色鮮やかな花模様が無数に並んでいるだけで、自分の顔が映りこむ余地などまったくなかった。
「嘘……」と戦きながら目を離すと、老いた店主が怪訝な顔でこちらをじっと見つめていた。
「買うのかい?」と尋ねられたが、すかさず「いいえ」と答え、そのまま逃げてきたそうである。
第3話 残滓

都心で暮らす竹尾さんから聞かせてもらった話である。
ある年の夏場、結婚を間近に控えた彼女とふたり、実家のある田舎町へ帰省した時のこと。
帰省した翌日の昼過ぎ、彼女が「近所を見て回りたい」と言うので、父から借りた車で地元をドライブすることになった。
とはいえ、地元は寂れた田舎町である。実家の周囲にあるものと言えば、山と田んぼばかりで特に改まって見るべきものはない。
都会育ちの彼女のほうも、初めのうちは緑したたる田舎の景色に目を輝かせていたのだけれど、いくらも経たないうちに飽きてしまい、しだいに口数も少なくなっていった。
いっそのこと、それなりに大きな商業施設が立ち並ぶ隣町のほうへ足を伸ばしてみようか。
思い始めた矢先、車が走る田んぼ道の遥か前方に、鬱蒼と生い茂る雑木林が見えてきた。
とたんに昔の記憶がはたりと脳裏に蘇る。
同時に妙な好奇心も湧いてきた。
「なあ、退屈だったらちょっと面白いところ、行ってみないか?」
にやけ面を浮かべ、助手席に座る彼女に向かって声をかける。
「どこに?」と首を傾げる彼女に「お化け屋敷」と答えると案の定、彼女は露骨に顔をしかめた。
雑木林の中には、ぼろぼろに荒れ果てた民家があった。
竹尾さんが小さな頃から廃屋だった屋敷である。
特に忌まわしい過去があるわけではないらしいのだが、昔から地元の子供や若者たちの間では「林のお化け屋敷」と呼ばれ、探検ごっこに肝試しと、悪い意味で親しまれていた。
竹尾さんも小学時代から何度か忍び込んだことがある。建具も家財道具も古びてぼろくなった内部の様子は不気味で、いかにもお化けが棲んでいそうな雰囲気だったが、そんなものは一度も見たことがなかったし、怪しいことが起きたこともない。
ただ、怖い思いをしたことはある。
高校時代の夏休み、夜中に友人たちと肝試しをした時のことである。
懐中電灯を携えた竹尾さんが先頭になって家の中を探索していたのだけれど、家の奥に面したドアを開けた瞬間、懐中電灯の翳す光の中に笑みを浮かべた女の顔が飛びこんできた。
予期せぬ事態にぎょっとなって悲鳴があがり、大きく仰け反った挙げ句、尻餅をついてしまう。
とうとう本物の幽霊が出たのだと思って、身の毛がよだつ思いだった。けれども違った。
部屋の中をよくよく見てみると、懐中電灯に照らされていたのは、前田敦子の顔だった。
厳密には前田敦子のポスターである。ドアから見て正面側に位置する大きな衣装箪笥の前面に、ドアップで笑みを浮かべる前田敦子のポスターが貼られていたのだった。
それまでこんな物が貼られていた記憶はなかったので、きっとこの家に忍び込んだ他の誰かが悪戯で貼っていったのだろう。正体が分かると一瞬呆然となり、それから笑いがこみあげてきた。不覚にも前田敦子にビビってしまった自分の不甲斐なさがおかしくて堪らず、友人たちと一緒にその場でしばらく、腹を抱えて笑い合った。
そんなことがあった廃屋である。あれからすでに十年近く経っているが、記憶が脳裏に蘇ると、今でもポスターが貼られているのか見てみたい気分になった。
怖がりの彼女は渋ったけれど半ば強引に説き伏せ、車を雑木林に向かって走らせる。
薄暗い林道を進み、ほどなく見えてきた件のお化け屋敷は、以前とまったく変わらぬ佇まいで林の中に屹立していた。窓ガラスは大半が破られ、玄関戸も開きっ放しになっている。
びくびくしながら竹尾さんの腕にしがみつく彼女を伴い、家の中へと足を踏み入れる。
中の様子も、以前訪ねた時とまったく同じだった。
家じゅうの建具と家財道具は埃と黴にまみれて悉く朽ちかけ、至るところに大きな蜘蛛の巣が張り巡らされている。相変わらず、雰囲気だけはいかにも出そうな感じだった。
こうした場所にまったく免疫のない彼女は、頻りに「もう帰ろうよ」とぐずる。
竹尾さんのほうは「ポスター見たら帰るから」と、構わず家の奥に向かって進んでいく。
家の中を通る暗い廊下は、どんづまりが右に向かって曲がっている。ポスターが貼られていた部屋は、角を曲がった先にあった。
みしみしと鳴る床板を踏みしめつつ、そろそろ角へと差し掛かろうとした時である。
曲がり角の向こうから突然「うおっ!」と大きな悲鳴が聞こえてきた。
こちらもびくりとなってその場に硬直していると、続いて廊下の角から何かが飛びだしてきた。
高校時代の竹尾さんだった。
顔じゅうを恐怖の色に引き攣らせた竹尾さんが、両腕をばたつかせながら上半身を仰け反らせ、廊下の角から姿を現した。
後ろ向きに飛びだしてきた身体はあっというまにバランスを崩し、こちらの見ている目の前で盛大に尻餅をついた。静まり返った廃屋の中にどん!と鈍い音が鳴り響く。
再び静寂。「え?」と思った時には、すでに目の前から自分の姿は消えていた。
幻でも見たかと思いかけたところへ、今度は片腕にしがみついていた彼女が悲鳴をあげた。
彼女も竹尾さんと同じものを見たのだと言う。坊主頭の少年が廊下の角から飛びだしてきたと、蒼ざめながら彼女は語った。
高校時代にこの廃屋へ忍び込んだ折り、竹尾さんは坊主頭だった。
部活の練習試合で他校の生徒と殴り合いの喧嘩になり、罰として顧問に頭を刈られたのである。
自分が坊主頭だったのは、後にも先にもこの時だけのことだったし、坊主にされた件に関して、彼女に話した覚えもない。それでも彼女は「坊主頭の少年を見た」と、声を大にして答えた。
曲がり角の先へ視線を向けると、開け放たれたドアの向こうに古びた衣装箪笥が見えた。
ポスターはすでに貼られておらず、古びて傷だらけになった木板が面を晒している。
ポスターの存在を確かめながら昔の失態を懐かしみに来たつもりが、予期せぬ事態に見舞われ、心拍が急激に跳ねあがっていく。
胸苦しさに堪えられなくなり、「今のなんなの?」という彼女の言葉に答えることすらできず、一目散に廃屋を逃げだしてきたそうである。