【シリーズ】秘匿怪談 第3回

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第10話 魔法のケーキ屋さん
恵菜さんという、現在30代半ばになる女性が体験した話である。
小学三年生の時だという。
学習発表会で彼女のクラスは、合唱をすることになった。
誰もが知っている童謡や当時流行っていたテレビアニメの主題歌など、全部で3曲を唄うのだけれど、恵菜さんは合唱には加わらず、ピアノの伴奏をすることになった。
当時、彼女は母親の教育方針でピアノ教室に通わせられていた。
だから他のクラスの子たちに比べれば、上手にピアノを弾くことができた。
けれども極度の緊張症でもあったので、大勢の人前で演奏すると指が震えてがたつき、思うように実力を発揮することができなかった。ピアノ教室で毎月開かれる発表会では、いつも途中で演奏が閊えてしまい、先生と母親に怒られてばかりいた。
だから本当は、伴奏などしたくなかったのだけれど、クラスでピアノを習っているのは自分だけということもあり、同級生たちから強い推薦を受けてしまう。
固辞したものの、担任からもお願いされてしまい、泣く泣く承諾することになった。
基礎はできているので練習を始めてまもなく、演奏自体は程よくこなせるようになる。だが、本番でも同じように弾ける自信はなかった。
何百人もの児童や保護者を前に演奏するのかと考えただけで、練習中でも呼吸が乱れ気味になる。
発表会を観に来る母親の叱責も恐ろしくて堪らなかった。母は恵菜さんが大きな役を任されたことに喜んでいたが、その半面、恵菜さんに多大なプレッシャーもかけていた。
「とにかく大事な舞台なのだから、いつものような失敗は絶対に許されない」
「もしもしくじったら、お母さんも恥をかく。だから覚悟を決めて臨みなさい」
期待と脅しが綯い交ぜになった、険しい表情で語りかける母の姿に意気込むどころか、ますます萎縮することになった。
そうした気疎い日々が続き、いよいよ本番が翌日に迫った夜のことである。
悶々とした心地でようやく眠りに落ちると、恵菜さんは奇妙な夢を見た。
夢の中で恵菜さんは、小さなケーキ屋の中にいた。
目の前に立つショーケースの中には、美味しそうなケーキがずらりと並んでいる。
店内の壁には、温かな色みを湛えた木目調の茶色いクロスが貼られ、壁際に置かれた銀色の什器には、ロールパンやサンドイッチなど、無数のパンが並んでいた。
店じゅうに漂う甘い香りに陶然となり、色とりどりの洋菓子に目を奪われていると、ショーケースの向こうから「こんにちは」と、声をかけられた。
見あげると、ショーケースの向こうに白いコックコートを着た恰幅のよいおじさんが立っていて、笑顔でこちらを見おろしていた。
白髪頭に大きく丸い鼻をしたその顔は、どことなく『それいけ! アンパンマン』に出てくるジャムおじさんを連想させる雰囲気があった。
「明日はいよいよ本番だね。気分はどうかな。まだまだ緊張しているのかい?」
おじさんの問いかけに恵菜さんは寸秒間を置き、「うん」と答える。
すると、おじさんは優しい声音で「君ならきっと大丈夫」と、励ましてくれた。
「どうせ失敗するに決まってる。わたし、怖い。上手く演奏なんかできっこない……」
さらに恵菜さんが答えると、おじさんはゆっくりと首を横に振って、こう言った。
「ならおじさんが、魔法のケーキをご馳走してあげよう。食べると不思議な力が湧いて、つまんない緊張なんか、あっというまにどっかへ吹っ飛んでいってしまうケーキだよ」
快活な口ぶりで言い終えるや、おじさんは店内の片隅にある小さなテーブルセットへ恵菜さんを座らせ、まもなくケーキがのった皿を運んできた。
皿の上には真っ赤に熟した苺のショートケーキと、チーズケーキが並んでいる。
どちらも恵菜さんの大好物だった。
ケーキは思わず、はっと目を瞠るほどの美味で、甘味も食感も抜群に素晴らしかった。夢中になって口へ運び始めると、皿の上はたちまち空になってしまう。
「どうだい? 力が湧いてきただろう?」
ケーキを食べ終えるのを見計らうようにして、テーブルの端に立っていたおじさんが、にこやかな笑みを浮かべて尋ねてきた。
言われてみると確かに、つい先ほどまでざわざわしていて落ち着かなかった気持ちが嘘のように鎮まり、ゆったりと落ち着いた心地になっていることに気がついた。
加えて妙な高揚感とともに強い自信も湧いてきて、一刻も早くみんなの前でピアノを弾きたいという気分にもなってくる。これは本当に魔法のケーキなのだと思った。
「どうだい? もっと食べたいかい?」と訊かれたので、すかさず「うんッ!」と答え、今度はチョコケーキとシュークリームをご馳走してもらった。
夢の中だからなのか、ケーキはいくらでも食べることができた。
一皿目のケーキに負けず劣らず美味しいチョコケーキとシュークリームを完食すると、さらにはミルフィーユとチェリーパイ、プリンアラモードなどもおかわりさせてもらい、得も言われぬ色とりどりの甘味を心ゆくまで堪能した。
「魔法のケーキをいっぱい食べれば大丈夫。みんなが君に拍手喝采、発表会は大成功だ。明日は楽しくピアノを弾くんだよ!」
賑々しい笑みを浮かべたおじさんに檄を飛ばされると、身体の内から湧きだす自信はますます強まり、思う存分やってやろうという気持ちになる。
それから10個近くもケーキを平らげたところで、ようやくお腹がいっぱいになった。
人心地ついて充足の吐息を漏らしているところへ、視界がもやもやと薄白く霞み始め、夢は萎むようにしてふつりと終わった。
それは異様なまでに生々しい夢だった。翌朝目覚めてからも恵菜さんは、おじさんの姿を始め、夢の中で交わしたやりとりの全てをありありと思いだすことができた。
ケーキの味も、口の中に余韻が感じられるほど鮮明に覚えている。
さらには、ケーキを食べて湧きだしてきた奇妙な自信もそのまま立ち消えることなく、胸の中に残り続けていた。こんな夢を見たのは、生まれて初めてのことだった。
夢の中でおじさんが言っていたとおり、まるで魔法のようだと感じた。
その日の学習発表会での演奏は、大成功を収める結果となった。
登校してからも自信は少しも薄れず、いざ本番が始まって体育館の舞台に設えられたピアノの前に座っても、緊張のきの字すら感じることがなかった。
同級生の指揮者がだした合図とともに鍵盤を叩きだすと、自分でも信じられないほど伸びやかな気持ちで、全ての曲目を一度も閊えることなく演奏することができた。
観客席からの大きな拍手で演奏を終えたあとは、舞台の袖でも担任と同級生たちから過大な賛辞を贈られ、天にも昇りそうな気持ちになる。
夢見心地で帰宅すると、発表会を観に来た母からも笑顔で大いに褒めちぎられた。
ピアノの演奏で母から褒められたのは、実に久しぶりのことだった。
予期していた以上の成果と賞賛に、恵菜さんの胸は大きな幸福に満たされた。
発表会が終わった晩も夢を見た。
壁面に木目調の茶色いクロスが貼られた小さなケーキ屋の店内で、恵菜さんは店内の片隅にあるテーブルセットに着いている。
眼前にはたくさんのケーキがのった皿が置かれ、隣の椅子にはおじさんが座っていた。
「どうだい? 魔法のケーキの力はすごかったろう? 発表会は大成功だったね」
おじさんは満面を綻ばせ、「今日もたんとおあがり」と言った。
勧められるがまま、弾んだ心地でフォークを手に取り、さっそくケーキを食べ始める。口いっぱいに広がる苺ショートの柔々とした食感と芳醇な甘味に、思わず笑みが零れる。
そうして、皿の上にずらりと並んだケーキを夢中になって口に運んでいる時だった。
ふいにおじさんが、恵菜さんの太腿の上に手を乗せた。
はっとして顔をあげると、満面に奇妙な笑みを浮かべたおじさんが、恵菜さんの顔を覗きこんでいる。それは先刻までの優しい笑みとは異質な、目を合わせているとなぜだか胃の腑がしんと冷たくなってくる、得体の知れない不気味な笑顔だった。
「発表会の演奏が大成功だったのは、おじさんが作った魔法のケーキのお蔭だよね?」
にまにまと下卑た形に目を細め、不穏な含みを帯びた声音でおじさんが言った。
一瞬、言葉が詰まったものの、小さな声で「うん……」と答える。
「だったらお礼をしてほしいな。本当にちょっとでいいからさ」
「なんだろう……?」と困惑し始めるなり、おじさんの手が太腿の上をゆるゆると滑り、恵菜さんの穿いているスカートの中へ入ってきた。
とたんに背筋がびくりと波打ち、あらん限りの悲鳴があがる。
それでもおじさんの手は、スカートの中に深々と潜りこんだままだった。
とっさに握り締めていたフォークを、おじさんの顔に向かって突き立てる。
フォークの先端はおじさんの右目にずぶりと音を立てて刺さり、穴の開いた眼球から半透明の汁が、どろりと頬を伝って零れだした。
おじさんは右目からフォークの柄を生やしたまま、獣じみた凄まじい絶叫を張りあげ、両手で顔を覆い始める。
恵菜さんはその隙を突いて椅子から立ちあがると、店の玄関に向かって脱兎のごとく、一目散に駆けだしていく。
そこで目が覚めた。気づくと朝になっていた。なんだか妙に身体が冷たいと思ったら、着ていたパジャマが寝汗でびっしょりと濡れていた。
発表会の前夜に見た時と同じく、やはり恐ろしく現実感の強い、生々しい夢だった。
目覚めてからも、右目を刺されたおじさんの悲痛な叫び声が耳にこびりついていたし、目蓋を閉じれば、両手で顔を覆って悶え苦しむおじさんの姿も、脳裏にまざまざと蘇る。
それに加えて、スカートの中に挿しこまれた手の感触も覚えていた。
乾いた岩のようにごつごつと堅いのに、内からじんわりと熱を帯びて生温かくもあるその不快な感触を思いだすと、たちまち肌身が凍りつき、涙がぼろぼろと零れだす。
居ても立ってもいられなくなり、台所で朝食の支度をしている母の許へ向かった。
しどろもどろになりながらも夢の話を母に説明したのだけれど、半べそをかきながら身を強張らせる恵菜さんに対して、母は「ただの夢でしょう?」と笑うばかりだった。
今夜も夢の続きを見たらどうしよう……。
強い不安と恐怖心に駆られ、生きた心地もしないまま1日を過ごしたが、結局その晩、夢の続きを見ることはなかった。
その後も夢を見ることはなく、日にちが経つにつれ、次第にショックも薄れていった。
どんなに生々しくて奇怪な夢でも、記憶が朧になっていけば、現実感は遠のいていく。所詮、夢は夢だと割り切ることもできるようになるはずだった。
ただ、そんなふうに忘れようと努める一方で、初めて夢を見て以来、恵菜さんの心に生じた変化はその後も変わらず残り続けた。
学習発表会で演奏を終えたのちも、人前でピアノを弾くことに動じることがなくなり、演奏が閊えることもなくなった。まるで人が変わったようだと、ピアノ教室の先生や母から驚かれたし、何より自分自身が驚いていた。
思い当たる理由といえば、認めたくはなかったが、夢の中でおじさんにご馳走された、件の魔法のケーキ以外に考えられなかった。
己の心境の変化が魔法のケーキを食べたからなのだとすれば、やはり二晩続けて見たあの夢は、ただの夢ではなかったということになる。
本当は「単なる夢」と思って割り切りたいにもかかわらず、こうした不可解な事実が頭の中で引っかかり、思うように気持ちを切り替えることができなかった。
ピアノの腕前自体に関しては、目覚ましく向上するでもなければ落ちこむこともなく、まずますのレベルを維持して続いていった。
本当はやめてしまいたかったのだけれど、母が許してくれず、大した愛着もなかったピアノの稽古は、高校を卒業するまで続けられた。
その間、地元の小さなコンクールなどで何度か賞を獲ったこともある。
いずれの賞に輝く際の演奏においても、やはり少しも緊張することがなかった。
そこからさらに長い月日が経ち、恵菜さんがそろそろ30代を迎える頃のことである。
大学を卒業後、恵菜さんは実家を離れ、アパレル関係の会社に勤めていた。
ある日のこと、初めての取引先へひとりで商談に向かうことになった。
取引先は会社から車で2時間ほどの距離にある。大口の取引になるため、上司からは「くれぐれも粗相のないように」と念を押されて出発した。
恵菜さん自身も強い意気込みで会社を出たのだが、1時間ほど車を走らせたところで、事前に準備していた手土産を会社に忘れてきたことに気づいてしまう。
今さら引き返したのでは、約束の時間に間に合わない。困ったことになったと思った。
折りしも車は、寂れた田舎町の郊外に延びる、細い県道を走るさなかだった。
道沿いには個人経営とおぼしき小さな商店などが、まばらに立ち並ぶばかりである。
どうしたものかと頭を悩ませながら車を走らせていくと、ほどなくして前方の道端に、古ぼけたケーキ屋の看板が立っているのが目に入った。看板同様、店構えも古めかしく、いかにも地元の常連客を相手に細々と商売をしているような雰囲気である。
もう少し我慢して先へ進んでいけば、あるいはもっと洒落た手土産が買えそうな店が見つかるかもしれない。
けれども土地勘がないため、この後は手頃な店が見つからないという可能性もある。
僅かに迷いはしたものの、結局ここで買い物を済ませることにした。
駐車場に車を乗り入れ、店の玄関ドアを潜る。
中へと1歩足を踏み入れた瞬間、うっすらと黴臭い臭気が鼻腔を突いた。
バターやチョコレートの甘い香りを期待していた鼻が、思わずきゅっと縮んでしまう。
店内に客の姿は見当たらず、壁際の什器に並べられたパン類の品揃えもまばらである。壁に貼られた木目調の茶色いクロスは日焼けしてすっかり色褪せ、黴の臭気と相俟って店内全体に陰気でうらぶれた雰囲気を漂わせている。
入店するなり「失敗だったな」と、肩を竦める羽目になった。
一瞬、このまま踵を返して店を出ようかとも考えたのだが、時間の余裕もあまりない。背に腹は代えられないと思い直し、店の奥側にあるショーケースに向かって進んでいく。
ショーケースの向こうでは、コックコート姿の男がこちらに背を向けながら身を屈め、何やら黙々と作業をしているところだった。
衣服がはちきれんばかりに丸々と肥え太った、まるで小山のような体躯の男である。
こちらの存在に気づいているのかいないのか、「いらっしゃいませ」のひと言もない。
元は純白だったであろうコックコートは、小麦粉のカスやチョコレートの染みなどであちこちが薄汚れ、使い古した雑巾を思わせる不潔な色みを帯びている。
ショーケースの中にはショートケーキやチーズケーキなどの定番商品が並んでいたが、いずれも平凡な拵えで、特別目を惹くようなものはなかった
小さくため息を吐きながら「すみません」と声をかけると、男はのそりと立ちあがり、巨体をぐらつかせながらこちらへゆっくり面を向けた。
とたんに背筋がぞわりと粟立ち、冷や水を浴びせられたようにぞっとする。
ショーケースの向かいに立つ男は、小学時代に夢で見た、あのおじさんだった。
白髪頭は怪鳥の巣のごとくもじゃもじゃに乱れ、ぱんぱんに膨れあがった丸い顔には、至るところに赤黒い吹き出物が犇めいて、まるでゾンビのような面貌である。
遠い昔、夢の中で見た時とだいぶ印象は変わっていたが、顔の造り自体は紛れもなく、あのケーキ屋のおじさんそのものである。
すかさず目を伏せ、視線が絡まないようにしたのだけれど、そのさなか、ほんの一瞬見えた男の右目は、いかにも生気に乏しい、冷たい光を帯びているのが見て取れた。
考えたくなどなかったが、右目はおそらく義眼なのではないかと思う。
「苺ショートを5つください……」
ざわざわと胸中に渦巻く不安に戦きながらもどうにか平静を装い、注文を告げる。
男は覇気のない声音で「はい」と答え、再び身を屈めてショーケースの戸を開けると、緩慢な手つきで注文されたケーキを取り始めた。
彼の動向に警戒しながら、改めて店内の様子を確認してみる。
ショーケースや什器の位置、壁に貼られた木目調のクロス、店内の片隅に設えられた小さなテーブルセット。他にも床の色や、レジの置かれたカウンターの造りなど。
当時、夢で見た記憶と照らし合わせてみると、店の造りもまったく同じものに思えた。
脳裏に生じた混乱が、掴みどころのない恐怖へとすり替わる。
今目の前にいるこの男は、小学時代に夢で見たあの男と同じ人物なのだろうか?
仮に同じ男なのだとしたら、自分のことを覚えているだろうか?
もしも気づいているならどうしよう……。
そんな危機感も抱き始め、一刻も早く会計を済ませて店を出たい衝動に駆られる。
じりじりしながらショーケースの前で身を強張らせていると、ようやく男が注文したケーキを紙箱に詰め終えた。
ぶっきらぼうな手つきで紙箱を持ち、ショーケースの脇にあるレジの前へ歩いていく。
視線を合わせないように気をつけつつ、恵菜さんもレジの前へと向かった。
ところがレジの前に向かい合って立っても、男はうんともすんとも言わず黙っている。男の不穏な素振りにますます強い不安に駆られ、たちまち堪らない気分に陥ってしまう。
「おいくらでしょうか?」
無言で突っ立つ男に向かって、目を伏せたままおずおずと尋ねる。
「……しゃ……みだと……こかな……」
恵菜さんの問いかけに男は寸秒間を置き、ぼそぼそとした小声で何やら答えた。
「すみません、なんですか?」
ほとんど聞き取れなかった男の言葉に焦れながら、再びおずおずと問いかける。
「慰謝料込みだと、500万ってとこかな……」
陰気な声音で聞こえた言葉にぎくりと肩が跳ねあがった瞬間、恵菜さんは踵を返すと、矢のような勢いで店を飛びだした。
心臓はばくばくと早鐘を打ち鳴らし、車に乗って再び県道を走り始めてからも一向に治まる気配がなかった。おまけにのどはからからに干上がり、頭も痛くなってくる。容態はよくなるどころか、刻一刻と悪くなっていくばかりだった。
そこへ折りよく、コンビニが見えてきた。
何か飲み物でも買ってのどを潤しながら、少しだけ休んでいこうと考える。
駐車場に車を停め、ドアを開けようとしたところへ強い吐き気に見舞われた。
店のトイレで吐こうとしたのだけれど、車を降りる前に胃の腑が「ごぶり」と脈打ち、気づけば車内の助手席に向かって、しとどに反吐を噴き散らしていた。
ようやくの思いで吐きだした物を目にしたとたん、ぎょっとなって悲鳴があがる。
甘ったるい香気とともに助手席の上に吐き戻されたのは、大量のケーキの残骸だった。
ケーキなど、食べた覚えはない。
昔、夢の中で食べたケーキなのではないかと思うなり、悲鳴はさらに大きくなった。
そこへふいに視界が真っ暗になる。目の前が一面、黒一色の闇景色へと切り替わる。
パニックに駆られ、両目を滅茶苦茶に擦っていると、視界はすぐに元へ戻った。
再び開けた視界の真ん前には、顔じゅうに薄笑いを浮かべた、ケーキ屋の顔があった。 ぼさぼさに乱れた白髪をざわつかせ、満面にぶつぶつと赤黒い吹き出物を犇めかせたケーキ屋の男は、恵菜さんの鼻先まで顔を近寄せ、両目を爛々とぎらつかせている。
やはり右目は義眼だった。
眼窩の中からこちらを見つめるそれは、ガラス玉のように硬質でのっぺりとしており、肌身がぞっと凍りつくような冷たい光を放っている。
男は丸太のように太い両腕で、こちらの肩を握り潰すような勢いで押さえつけてきた。必死になって振りほどこうとしても腕の力は強すぎて、びくともしない。
恵菜さんが泣き叫ぶと、男は醜い満面を歪ませ、げらげらと声をあげて笑い始めた。
そこで再び目の前が真っ暗になり、気づくと今度は病院のベッドの上にいた。
脳梗塞を起こしたのだという。車中で反吐まみれになって倒れているのを通りかかった客が見つけ、救急病院に搬送されたとのことだった。
不幸中の幸いにも症状は軽く、すぐに退院することができた。
後遺症も残らず、まもなく仕事に復帰することもできた。
だが、経過がいかに良好であっても恵菜さんの胸中には、その後も得体の知れない恐怖と不安が残り続けた。
昏倒時に車内を汚していた反吐の内容物はやはり、ケーキの残骸とおぼしき物だった。清掃に当たった実家の母が証言している。
どんなに思い返しても食べた覚えなどないのだけれど、もしかしたら脳梗塞を起こす前兆か何かで、記憶が飛んでいるのかもしれない。
車中で昏倒したあの日、ケーキを口にできた場所といえば、ひとつしかなかった。
退院からほどなくして、少々ためらいながらもケーキ屋の所在をネットで調べてみた。
けれども店があったはずの場所は、青草が生い茂る空き地になっていた。
店の名前を覚えていたので、今度はそちらを頼りに検索してみる。
すると、件の土地には確かに以前、恵菜さんが記憶している店の名前とまったく同じ、小さなケーキ屋が存在していたことが分かった。
ただ、ネットに記載されている情報によると、店はもう10年以上も前に閉店している。店舗を取り壊したのがいつ頃なのかは定かでなかったが、地図サイトの航空写真に写る空き地の様子を見る限り、少なくともここ最近のことではなさそうである。
ネットで調べて分かったのはこれだけで、店の経営者の素性や今現在については不明。顔写真もないため、店内で目撃した男と同一人物なのかも分からなかった。
男の正体や目的は元より、自分がどうしてこんな災禍に見舞われる羽目になったのか。それすら理解することができず、退院から日にちが経っても気分は少しも晴れなかった。
全ては今から20年以上も前、夢の中で男に「魔法のケーキ」を振る舞われたことに端を発する出来事だったのだと思う。
だがそもそも、夢の中にあんな得体の知れない男が現れる理由からして、思い当たる節が何もなかった。少なくとも、こちらから望んだわけでは決してない。
発端からして、すでに掴みどころのない怪異である。対処法も分からず、今回の件で全てが終わったという裏付けもなかった。またいつ何時、あのケーキ屋の男が目の前に現れないとも限らない。仮にそんな時が来たら、今度は男に何をされてしまうのだろう。
そんなことに思いを巡らすと、気分は日増しに陰っていくばかりだった。
それから今現在に至るまで、周囲で妖しいことが起こることはないそうである。
ただ、脳梗塞の一件以来、ケーキ屋にだけは絶対近寄らないように努めている。
迂闊に中へ入って、もしも店内にあの男の姿があったら……。
そんなことを想像しただけで身体が震え、とても近づく気にはなれないのだという。