【シリーズ】秘匿怪談 第5回

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第17話 お車で

厚木さんは市街の住宅地に立つ一軒家に暮らしている。
彼が高校時代に体験したという話である。八月の遅れ盆、迎え火の日のことだった。
夕暮れ時、二階にある自室でくつろいでいると、母が階下から「迎え火の準備を手伝って」と声をかけてきた。窓ガラスの向こうは、暗みを帯びた藍色に染まりかけている。
窓を開けて何気なく外の様子を見ると、家の前に延びる狭い道路に長い車の列ができていた。
いずれも黒いボディの車である。
車は路上の片側車線に間隔を詰めて一列に並び、家の前をゆっくりとした速度で流れていく。
元々、混み合うような道ではない。こんな光景を見たのは初めてのことだった。
近所で葬式でもあるのかと思ったのだが、どうにもしっくり来ない。不審に思いながら階下へおりると、さっそく母に事のあらましを伝え、玄関戸を開けてみた。
門口から見える路上には、車など一台も走っていなかった。
門口から路上に出てみても、やはり車は一台も見当たらない。
母から「夢でも見たんじゃないの?」と笑われ、「違う!」と抗議したのだが自信はなかった。狐に摘ままれたような心地で門口に迎え火を灯す。
明々と燃え盛る炎を見つめるさなか、ふと周囲で妙な気配を感じた。
さわさわとささめくような、言葉にならない小さな声がたくさん聞こえてくるように感じられ、それに合わせて衣擦れの鋭い音や幽かな足音などが、周囲の至るところから聞こえてくる。
ような気がする。
顔をあげ、辺りを見回しても、そうした気配を発する人影は見当たらなかった。
ただ、目には視えざる怪しい気配だけが方々から間断なく感じられ、近所の人口密度が一気に増したかのように思えてならない。
もしかしたら今年はみんな、車でこちらへ帰ってきたのだろうか?
思いつくと妙に納得してしまうものがあり、厚木さんは背筋を少し震わせながら門口で燃える迎え火をしばらく見つめ続けたそうである。
第18話 ぼん、ぼん、ぼん

都内で会社勤めをしている小山内さんの話である。
八月の月遅れ盆に、彼は群馬県の田舎町にある実家へ帰省した。
帰省二日目の昼下がり、両親は親類宅へ出掛け、小山内さんは茶の間で昼寝をすることにした。
茶の間と隣接する仏間を隔てる襖は開け放たれ、座敷の奥に設えられた精霊棚が見える。
縁側の窓ガラスも開放され、時折吹きつける微風が、軒先に吊るされた風鈴を涼やかに鳴らす。外では庭木に留まったミンミンゼミが盛んに声をあげていた。
ふたつに折った座布団を枕代わりにして横たわると、眠りはすぐに訪れた。日頃の仕事疲れに、帰省の披露も重なったのだろう。意識が蕩けるような心地よい眠りだった。
すやすやと寝息を立て始め、しばらく経った頃である。
夢の中で「ぼん、ぼん」という音が聞こえてきた。
誰かが畳の上を等間隔に跳ねている。そんな印象の音である。音は絶えることなく、断続的に「ぼん、ぼん、ぼん、ぼん」と聞こえてくる。
なんの音かと思い始めてまもなく、目が覚めた。
ところが目蓋を開けても、音はなおも聞こえてくる。
何気なしに仏間のほうへ視線を向けると、精霊棚の前で着物姿の女が跳ねていた。
黒い髪を長く伸ばした若い女で、着物の色は深めの紺。女は両腕を胴の脇にぴたりと貼りつけ、畳の上を一心不乱に跳ねている。生白い裸足の裏が畳に付くたび、「ぼん、ぼん」と乾いた音が鳴り響く。顔に表情はなく、人形めいた虚ろな面持ちでひたすら跳ねるを繰り返していた。
ぎょっとなって身を起こしたが、女の姿は消えなかった。寝ぼけているのではないと確信する。
躊躇いながらも「おい……」と声をかけてみた。しかし、女は呼びかけに応じる気配すらなく、なおも畳の上を跳ね続ける。
そこへ外から車のエンジン音が聞こえてきた。反射的に目を向けて見ると、門口から宅配便のトラックが入ってくるところだった。再び視線を女のほうへ向け直す。
すると女の姿が消えていた。仏間の中は何事もなかったかのように静まり返っている。
まもなく玄関口にやって来た宅配便の業者から荷物を受け取り、再び仏間の中を検めてみたが、やはり女の姿は見当たらなかった。
ただ、女が跳ねていた畳の上辺りは、わずかに湿り気を含んで薄黒く変色していた。
奇妙なことにその日から、小山内さんと実家の家族は数日間、微熱に悩まされたそうである。
第19話 煙顔

お盆の半ば、入間さんが妻と小学生の娘を連れて、自家の墓参りへ出掛けた時のこと。
お参りを済ませ、墓地の中を歩いて帰るさなか、娘が「あっ」と声をあげて首を捻った。
「どうしたの?」と尋ねると、娘は片手の指をすっと伸ばして「あれ、変」とつぶやいた。
指が示す先には、墓前に線香の煙が白々と立ち昇る墓石がある。
それだけならば、どうということもない光景なのだが、よく見てみると確かに娘の言うとおり、墓石の前では変なことが起こっていた。
線香から立ち昇る白い煙。それが墓石の前に対流し、ぐるぐると球状の形を描いて回っている。煙の表にはもやついた丸い穴が3つ開き、頻りに開いたり閉じたりを繰り返している。
穴は目と口のように見えた。注視して見ると、煙の中には鼻とおぼしきでっぱりも確認できる。煙の上部でわしゃわしゃと細かい波を描きながらうねる線は、白髪のように見えた。
墓石の前に浮かぶ白い煙の塊は、明らかに人の顔を模している。それも年老いた男の顔である。一度形を捉えると、どんなに目を凝らしても老人の顔にしか見えなかった。
「顔だよね?」と、娘が蒼ざめながら訊いてくる。
「やだ……本当に人の顔みたい。お爺さんの顔だよね……?」
妻も眉根を強張らせながら訴えてくる。
ふたりの言葉に入間さんも、固唾を呑みつつ「うん……」と答えるのが精一杯だった。
そのまま3人で恐々しながら様子をうかがっていると、ふいに煙がこちらに面を向けた。
顔には薄笑いが浮かんでいる。
とたんに親子揃って悲鳴をあげるなり、矢のような勢いで墓地から逃げだしてきたという。
第20話 あるいは再来

こちらもお盆の半ばに起きた話である。10年近く前の話だという。
この年のお盆は台風の影響で、連日天気が荒れていた。
当時、小学4年生だった乃恵美さんは夏休みの真っ只中、両親も仕事が休みだったのだけれど、天気のせいでどこにも遊びに連れてもらえなかった。
昼下がり、降り頻る雨の音を聞きつつ、がっかりしながら居間でテレビを見ていた時である。
ふいに父が「怖い話、聞かせてあげようか?」と言いだした。
大して興味はなかったのだけれど、テレビもつまらなかったので「うん、聞かせて」と答える。母も加わり、ふたりで父の話に耳を傾け始めた。
父の口から出てきたのは、子供時代に目撃したという生首のお化けにまつわる話だった。
小学2年生の夏、やはりお盆の時期だったそうである。
場所は、父が当時暮らしていた実家。夕暮れ時に裏庭でトンボ捕りをしていたところ、裏庭に面した雑木林の中から怪しい視線を感じた。
目を向けると、鬱蒼とした木立ちの中から、知らない女がこちらをじっと見つめて笑っている。
顔は妙に丸っこく、そのうえ異様に大きかった。洗濯篭と同じくらいのサイズをしている。
肌の色も、周囲に生える樹々の葉と合わせるように緑っぽく、黴を思わせるような色みである。
加えて、女は首から下がなかった。大きな首だけがただ、林の中にふわふわと浮いている。
ひと目見るなり、生身の人間でないことは明白だった。
悲鳴をあげて虫取り網を放りだすと、慌てて家の中へ逃げ戻ったそうである。
あまりにも怖い思いをしたせいか、父は長らく生首のお化けを見た件を忘れていたのだという。それを今日になってふいに思いだしたので、語ってみたくなったとのことだった。
乃恵美さんも母も「怖い!」と答えて、顔をしかめた。父はふたりの反応に笑っていた。
と、そこへ視界の端に違和感を覚えた。反射的に目を向けると、雨露に煙る居間の窓ガラスの向こうに何かがふわふわと浮いているのが見えた。
スイカだった。
丸々と育った大きなスイカが頻降る雨の中、上下にふわふわと揺れながら浮かんでいる。
乃恵美さんが「あっ」と声を漏らすと、父も母もすぐに気づいて「あっ」と声をあげた。
とたんにスイカは窓枠の下へすとんと落ちて見えなくなった。音は聞こえてこなかった。
父が窓を開け、3人で外の様子を覗いてみたのだけれど、スイカは地面に落ちていなかった。
代わりに大層気味の悪いことに、スイカが着地するべきはずだった窓外の地面には、女の物とおぼしき黒くて長い髪の毛が束になって、蛇のようにとぐろを巻いていた。
その後は、特に身の回りで変わったことが起こることはなかったが、この日に起きた一件以来、父は二度と、子供時代に見たという生首にまつわる話をしなくなってしまったそうである。
第21話 痺れを切らす

お盆のさなか、年配の篠江さんが夜中に自室の布団で寝入っていた時のこと。
突然「おい」と声をかけられ、はっとなって目が覚めた。
枕元には、顔色を灰色に染まった亡き夫が、憮然とした表情で篠江さんの顔を覗きこんでいる。
思わず「ひゃっ!」と悲鳴をあげて飛び起きるなり、夫の顔はぱたりと仰向けになって倒れた。
見るとそれは、仏間の長押に掛けている夫の遺影写真である。
篠江さんは独り暮らしのため、枕元に写真を運んで来る者などいない。写真が勝手に長押から飛びおりて仏間を抜けだし、ここまでやって来たとしか思えなかった。
夫が亡くなって10年近く経とうとしているが、ここ数年は暑さにかまけて、お盆の墓参りに出向いていなかったことに思い至る。明日も親しい友人たちとカラオケに出掛ける予定だった。
「ごめんね、あたしが悪うございました……」
倒れた遺影に長々と手を合わせた翌日、篠江さんは久方ぶりの墓参りに出向いた。
第22話 ごろん坊

昭和50年代の終わり頃、仁川さんが小学6年生の時に体験した話だという。
お盆の夜に子供会の行事で肝試しをすることになった。
会場は地元の寺に隣接する墓地。墓地の中には外灯など、明かりのたぐいはほとんどないため、夜は鼻を摘ままれても分からないような暗闇に包まれる。
仁川さんは上級生だったし、面白そうということもあって、前もって脅かし役を志願していた。当日はお化けの衣装に身を包み、他の上級生たちと墓地に入って、各々が自分の持ち場に陣取った。
仁川さんが受け持ったのは、肝試しのコースで中間地点に差し掛かる場所だった。無数に並ぶ墓石の合間に丈高い樹々が生い茂る、昼でも恐ろしげな雰囲気を醸す場所である。
独りではさすがに……ということで、仲の良い同級生と組んで墓石の裏に身を潜める。
まもなく肝試しが始まり、少人数のグループになった子供たちが墓地の中を怖々と歩き始めた。
仁川さんたちは彼らが近づいてくる気配を察知すると、墓石の裏から躍りだして奇声を発した。お化けのお面を付けて暗闇から現れるふたりの姿に、子供たちはいずれも悲鳴を張りあげた。
肝試しが始まってしばらく経った頃のことだった。
墓石の裏で息を潜めて待っていると、墓地の中の道の向こうからまたぞろ足音が聞こえてきた。
「今度は誰だ?」と思って目を凝らして見ると、子供にしてはやたらと大きな黒い人影がひとつ、道に敷かれた砂利を踏みしめながら、こちらに向かってゆっくりと近づいてくる。
それは黒い法衣を身に纏ったお坊さんだった。だが、この寺の住職ではない。
お坊さんは仁川さんたちが隠れている墓石の前まで達すると、やおらおどけたような口ぶりで「脅しておくれ」と声をかけてきた。
戸惑いながらも墓石の裏から躍り出て、「ばあっ!」と声をあげたその瞬間――。
お坊さんの首が、胴からごろんと地面に転がり落ちた。
今度は「ぎゃあっ!」と悲鳴があがり、仁川さんと同級生は死に物狂いでその場を逃げだした。息を切らして保護者や他の子供たちがいる山門の前まで戻ってくると、今しがた目にしたものを説明したが、誰もまともに取り合ってくれる者はいなかった。しつこく訴えていると笑われた。
得体の知れないお坊さんについても、そんな人物を見かけた者はいないという。
その後はとても脅かし役に戻る気になれず、肝試しが終わるまで山門の前で待つことにした。
結局この夜、いちばん恐ろしい思いをしたのは、仁川さんと同級生だったという話である。
第23話 白の怪

8月の半ば過ぎ。お盆もそろそろ終わりに差し掛かる夜のことである。
東北の田舎町に暮らす大学生の寧衣美さんは、東京から帰省していた姉に頼まれ、地元にあるコンビニまで車をだすことになった。
地元といっても、コンビニまでは車で20分近い距離がある。時刻は深夜を少し過ぎる辺り。
姉の目的も付録付きのファッション雑誌が欲しいだけだったので、あまり気乗りはしなかった。
「ジュースとお菓子、買ってあげるから」という姉の申し出に渋々車を走らせることになる。
コンビニまでは自宅の裏手に延びる林道を突っ切り、その先にそびえる山道を進んでいくのがいちばん近い。どちらも昼間から車通りの少ない心寂しい道筋で、外灯のたぐいもほとんどない。深夜に往復するのは憚られるものがあったが、早く帰って来たかったのでこの道を選んだ。
姉が隣に座っていたこともあり、行きは大した怖じ気も感じず、順調に運転することができた。山道を上って下り、ほどなく到着したコンビニで買い物を済ませ、再び元来た山道へ引き返す。
ところが山中に戻ってまもなくのことである。思いがけない事態に見舞われた。
真っ暗闇に包まれた視界一面に白い霧が立ちこめ始め、車外はみるみるうちに白々とした霧に覆われてしまう。今まで一度も見たことのないような、それは濃い霧だった。
ヘッドライトに照らされた道の前方は、せいぜい数メートル先を視認するのがようやくである。そこから先は、もやもやと蠢く壁のような霧に遮られ、わずかも様子をうかがうことができない。
「まいったな。お姉が買い物なんて言いだすから、こんなことになるんだよ……」
「しょうがないじゃん。こんなことになるとか思ってなかったし。それより運転、気をつけて」
ため息をこぼし、姉に言われるまでもなく低速で慎重に山道を進んでいく。
それから数分経った頃である。神経をすり減らしながら運転を続けるさなか、視界の端にふと、違和感を覚えた。何気なく運転席ん窓から外を見たとたん、背筋がびくりと跳ねあがる。
道端に広がる木立ちの中に白い着物を纏った人物が大勢突っ立ち、こちらに視線を向けていた。
濃霧のせいで仔細ははっきり認めることができないが、年の若い男女もいれば、老人もいたし、小さな子供とおぼしき姿もあった。
寧衣美さんは「ひっ!」と声をあげると、姉のほうも寸秒間を置き「きゃっ!」悲鳴をあげた。目は助手席側の窓に向けられている。
姉の視線を目で追うと、助手席側に面した木立ちの中にも白い着物姿の人物たちが立っていた。やはりいずれも、こちらに向かってじっと視線を向けている。
「なんなのこれ!」と寧衣美さんが叫ぶと、姉は即座に「知らない!」と叫び返してきた。
続いて声を少し潜め、「見ないほうがいいと思う……」とつぶやく。
言われたとおり、木立ちのほうから目を逸らし、白々と染まった前方に視線を集中させる。
なおも低速で車を走らせるなか、決して見まいと努めても、視界の端には白い着物姿の輪郭が、木立ちの中に間断なく連なりながら、ちらつき続けた。
得体の知れない人影がようやく見えなくなったのは、山道を半分近く進んだ頃のことだった。
同時に霧のほうも嘘のように晴れ始め、山道の周囲は再び漆黒の闇景色へと戻った。
寧衣美さんは様子を見計らってアクセルペダルを踏みこむと、あとは死に物狂いで山道を下り、林道を抜けて自宅へ戻った。
自宅の車庫へ車へ滑りこませ、安堵のため息を漏らしながら降車した時だった。
姉が再び悲鳴を張りあげ、「ちょっとこれ見て!」と叫んだ。
姉が指差す車の屋根のまんなかには、手のひら大の白くて平たい塊が貼りついていた。
一瞬、ティッシュか鳥の糞かと思ったのだが、よく見るとそれはどろどろに溶けた蝋燭だった。燃え尽きて平たくなった蝋が、車の屋根に貼りついている。
出掛ける間際、こんな物は屋根の上にのっていなかったはずである。コンビニから自宅へ戻る際にも見かけた記憶はない。姉の答えも同じだった。
では一体、いつ頃誰が、こんなことをしたのだろう?
姉とふたりでつかのま首を捻ったものの、答えは出ず、代わりに怖じ気のほうが再燃し始める。急いで屋根にへばりついた蝋を取り払い、蒼ざめながら自室へ戻った。
翌日、家族に事の次第を打ち明けると、年老いた祖母からぽつりと「お盆の山は怖いんだ」と告げられた。
嘘か誠か、お盆の時期に自宅へ帰ることのできない亡者たちは、お盆が終わる日まで山の中でひっそりと過ごすのだという。
以来、寧衣美さんはお盆の時季には決して、車で山中に入らないようにしているそうである。
第24話 潜伏

同じく東北地方の田舎町に暮らす、真帆さんの話である。
彼女は中学2年生の頃にこんな体験をしているのだという。
この年のお盆は、迎え火の日から家の中がぎくしゃくし始め、居心地の悪い空気になっていた。
迎え火を焚いたあと、夕飯の席で些細なことから父と祖父が口論になり、仲裁に入った祖母もふたりの態度に激昂して、一緒に高声をあげる始末になった。
翌日の昼は母がスイカを切る時にうっかり手を滑らせ、包丁で左手の人差し指をざっくり切る大怪我を負ったのだが、母の悲鳴に驚いた父は「何やってんだ!」と怒声を発し、母をすっかり萎縮させることになった。
同じ日の晩からは真帆さん自身が体調を崩し、半ば臥せるような恰好になってしまう。
熱があるわけでもなく、痛みや苦しさがあるわけでもないのだが、代わりに全身が重ったるく、まともに起きていることができない。医者からは夏バテではないかと言われたのだが、その割に食欲だけは旺盛で、出された物はいくらでも食べることができた。
父と祖父、祖母との間に勃発した諍いの火も燻ぶり続け、自宅の居間にて食事を囲む席は毎回、お通夜と修羅場が混じり合ったような異様な雰囲気に包まれた。
家族の機嫌が荒れていると家の中の空気までもが荒々しく感じられ、視界に映る家内の様子も心なし、平素より薄暗く、陰気なものに感じられて仕方なかった。
気が休まることは元より、身の置き所すらないような状況でお盆を過ごし、ようやく送り火の日を迎えた夕暮れ時のことである。
真帆さんは母と一緒に、自宅の門口で送り火を焚くことにした。
身体の具合は未だに落ち着かなかったのだけれど、機嫌の悪い他の家族たちと一緒にいるより、母とふたりでいたほうが楽だった。
「本当にみんな、どうしちゃったんだろうね?」
呆れた笑みを浮かべてぼやく母の言葉に「むかつく」などと相槌を打ちながら、門口の地面に焚き木を組んでいく。
準備が整うとふたりで焚き木の前に並んでしゃがみ、火をつけた。
とたんに右の肩がずっしりと重たくなり、続いて鋭い痛みが肩から腕のほうまで広がった。
誰かに肩を思いっきり掴まれたような感覚である。
はっとなって振り返ったが、背後には誰の姿もなかった。
代わりに母もはっとした表情で、真帆さんとほとんど同時にうしろを振り返ったのが目に入る。
「どうしたの?」と尋ねると、母は怪訝な面持ちで「今、誰かに肩を掴まれたみたい」と答えた。
左の肩を強く掴まれたような感触を覚えたのだという。
母は真帆さんの右側に並んでしゃがんでいた。状況から考えると、真帆さんと母の背後に来た“視えざる何か”がふたりの間に陣取って、同時に肩を掴んだ。そんな印象が強く浮かんだ。
「ご先祖さまかな……?」
真帆さんが尋ねると、母は一拍置いて「違うと思う」と答えた。
「だって、気持ち悪いもの」と言う。
母は焚き木に火をつけると急ぎ足で母屋へ戻り、近所にある菩提寺に行ってくると家族に伝えた。真帆さんも同行することにする。
菩提寺の年老いた住職に、母が今しがた起きたことを伝えると、住職は渋い顔をうなずかせ、「余計なものが居座っているんだろうな」と答えた。すぐになんとかしてくれるという。
その後、自宅に赴いた住職は、仏間に設えられた精霊棚の前に座し、熱心にお経を唱え始めた。供養の際に聞いている柔和な調子の声音ではなく、胴間声を振り絞るような仰々しい声音だった。
お経を唱え終わると、住職は「これでもう大丈夫だろう」と言って帰っていった。
その晩から真帆さんの体調は嘘のように良くなり、あんなにいがみ合っていた父と祖父母の機嫌もけろりと直って、家の中はすっかり元の状態に収まった。
住職の語るところによると、お盆の時季には稀に、あの世から帰って来た先祖たちに混じって、家の中を陰から騒がす餓鬼のようなものが入りこんでくることがあるのだという。
送り火を焚く日になってもまだまだ家に居座っていたいから、肩を掴んできたのではないか、とのことだった。