【シリーズ】秘匿怪談 第9回

第38話 じゃじゃ降りキャット

専業主婦の日夏さんが、かなり前から何度も体験している話だという。
外出中、奇妙な猫にふと出くわす。
白地に黒のハチワレ猫で、頭と同じく、尻尾の先もわずかに黒い。
猫は微動だにせず、こちらを見ながら佇んでいるのだけれど、日夏さんのほうが意識しだすと、すばやくどこかへ走り去ってしまう。
それからまもなく、決まって大雨が降り始めるのである。
記憶している限り、最初に猫を見かけたのは中学生の時だった。
下校中、ひとりで田舎道を歩いている時、前方の路上にぽつんと佇み、こちらを見ていた。
姿を認めて視線を凝らし始めると、猫は路傍に生い茂る草むらの中へ姿を消してしまう。
猫が目の前からいなくなってまもなく、頭上の晴れ空が一転。たちまちひどい夕立が降り始め、日夏さんは濡れ鼠になって家路をたどる羽目になった。
その次は、大学生の時である。
やはりひとりで街中を歩いていると、前方の雑踏に紛れて同じ猫が佇んでいるのが目に入る。
「あっ」と思ってまもなく、猫はどこかへ走り去り、それから大雨が降り始めた。
続いて見たのは、社会人になって数年経った頃。
職場の近所にある取引先へ書類を届けにいった帰り道、狭い路地の角を曲がると、少し離れた路上に突っ立っていた。
やはりこちらが姿を捉えてまもなく、猫は路傍に面した建物の隙間へすばやく走り去ってゆき、それから雨粒が路面を急激に濡らし始めた。
それから数年後、結婚して子供をお腹に身籠っている時にも、猫を見た。
今度は産婦人科医院の駐車場である。診察を終え、車に乗りこもうとしたところ、向かい側の駐車スペースに停まる車と車の間にいた。
やはり日夏さんと目が合うと猫はその場を立ち去り、ほどなく空から大粒の雨が降り始めた。
こんなことが15年余りの間に四度も繰り返されている。
見かけるのは全て同じ猫のように思えるのだけれど、生身の猫というのは考えづらい話である。だが、直後に決まって雨が降ることも考えれば、生身の猫でないほうが話に無理がない気もする。
毎回、それなりのブランクがあって忘れた頃に遭遇するため、いまいち現実味が感じられない。猫を見かけて雨が降るという現象もシュール過ぎて、怪異というより御伽話のような印象である。一時は自分が夢か幻でも見ているのではないかと思ったこともあるという。
ところが2年ほど前のことである。認識を少し改めさせるシチュエーションに見舞われた。
休日の昼間、4歳になる娘を連れて近所の公園へ遊びにいった、その帰り道。
娘の手を引き、住宅地に延びる小道を歩いていると、ふいに娘が「にゃんにゃ!」と言った。
娘は笑みを浮かべて路傍に面した空き地を指差している。指の先には猫がいた。
白地に黒のハチワレで、尻尾の先もわずかに黒い猫である。いつも雨を降らせるあの猫だった。
猫は日夏さんと目が合うなり、空き地の向こうに広がる草むらの中へ消えていった。
それからまもなく雨が降りだし、日夏さんと娘は、あわやずぶ濡れになる直前に帰宅する。
娘にも猫が見えたということは、少なくとも夢幻のたぐいではないということになる。
とはいえ、だったら猫の正体はなんなのか? どうして雨が降る前に姿を現すのか。
そうした道理は未だに分からないまま、いずれまた、猫を目にする機会があるのではないかと日夏さんは語っている。
第39話 ついてった

志川さんは、地方のとある中小企業で働いている。勤め始めて20年ほどになるという。
会社は2階建ての小さなビルだが、地階もある。
地階はL字型に曲がる廊下の壁に沿って、いくつか部屋が並ぶ造りになっていた。志川さんが就職した頃は事務室などに使われていたのだが、不況の煽りで業務を縮小していくにしたがい、部屋は資料室や倉庫に様変わりしていった。今では勤務中、地階に籠る社員はいない。
ビルが老朽化していくにつれ、地階はじめじめと湿っぽくなり、廊下を照らす蛍光灯の本数も減らされて薄暗くなった。
これだけでも少々気味の悪い雰囲気だというのに、廊下の曲がり角付近の壁にはいつ頃からか、梅雨の季節に入ると廊下の曲がり角付近の壁に、黒い染みが浮き出るようになってしまう。
染みはちょうど、人の形をしていた。
着物姿で髪の長い女が立っているように見える。
どうやら土中から滲み出る水分が壁面を黒く濡らして、こうした形を描きだしているらしい。
染みは梅雨が明けて真夏の暑い盛りになると、乾いて跡形もなくなってしまう。そして翌年の梅雨に差し掛かる頃になると、再び黙って姿を現す。
こうした様子も相俟って、染みは社員たちから毎年気味悪がられる存在だった。
5年前のことである。
梅雨時の夕方、笹野さんという若手の女性社員が、独りで地階の資料室へ向かった。
部屋は、L字に曲がった廊下の角の先にある。壁に浮いた染みの前を通っていくようになる。
心無い同僚たちが「気をつけていってこいよお!」などと冷やかしたが、彼女は意にも介さず「バカじゃないの?」と笑い飛ばしてオフィスを出ていった。
やがて10分ほどした頃、地階から彼女の凄まじい悲鳴が聞こえてきた。
何事かと驚き、みんなでオフィスを飛びだしていくと、笹野さんが涙で顔を歪めながら階段を駆け上ってくる。「染みに抱きつかれた!」と彼女は叫んだ。
資料室で用を済ませ、廊下を引き返していた時だという。角を曲がった辺りで、突然うしろから物凄い力で羽交い締めにされた。
振り返ると、背後の壁からどす黒い色をした女が半身を迫りだし、笹野さんを睨みつけていた。悲鳴をあげて逃げだしてきたそうである。
ぞっとする話だったが、状況を冷静に想像すると、地階に不審者が潜んでいるのではないかと考えるのが妥当だった。志川さんと数名の社員が様子を調べにおりていく。
みんなで恐る恐る地階の各部屋を覗き回ってみた結果、そうした者などいないことが分かった。
だがそのさなか、地階にいるべきはずの者もいなくなっていることに気づいてしまい、誰もが身震いする羽目になる。
廊下の角に浮いていたあの染みも、壁からすっかり姿をくらましていた。
笹野さんは翌日から体調不良を理由に会社を休むようになり、欠勤状態のまま、ふた月後には退職してしまう。原因不明の高熱が一向に引かないとのことだった。
地階の染みはその後も浮き出てくる気配はなく、翌年以降も姿を滲ませることはなかった。
まるで笹野さんについていってしまったようだと、今でも社内で語り草になっているという。
第40話 無念の白

数年前の秋、東北地方が強い台風に見舞われた時の話である。
その日、矢杉さんは折しも残業があって、会社を出るのが深夜に近い時間になってしまった。
夕暮れ時から戸外で吹き荒ぶ雨風は「止め」と願えど、勢いを弱めるどころか徐々にいや増し、暗闇の中で波しぶきのような水音を轟かせている。
濡れ鼠になりながら駐車場に停めてある車に乗りこみ、家路を慎重にたどり始めたのだけれど、通い慣れた県道の途中まで差し掛かると、道が浸水して通行止めのバリケードが並んでいた。
仕方なくUターンして、普段はほとんど使わない町道を進んでいくことにする。路傍の両側に古びた民家や家畜小屋などが点在する、昔ながらの寂れた細い道筋である。
荒天のうえに遅い時間とあって、すれ違う車は一台もなかった。フロントガラスを絶え間なく打ちつける雨粒の勢いにワイパーの動きが追いつかず、視界がぼやけて運転もしづらい。
神経を尖らせながらハンドルを握っていると、前方の路上に何やら白い物が転がっているのが、かすかに見えた。距離が近づいていくにつれ、白いハイヒールの片割れだと分かる。
対向車線側に大きくハンドルを切って避ける。無数の雨粒にさざめく路面にぽつりと横たわるハイヒールを脇目で見やり、どうしてこんなものが落ちているのだろうと思った。
気を取り直して視線を前方に戻すと、すぐ目の前を白い人影が横切っていくのが目に入る。
白いウェディングドレスを着た女だった。
悲鳴をあげてブレーキをベタ踏みしたとたん、視界が大きく揺らぎ、車内の重力がなくなった。続いて凄まじい轟音と衝撃に見舞われ、目の前が真っ白になる。エアバッグが開いたのである。
姿勢を直して雨音が騒ぐ窓の外へ視線を向けると、車は対向車線側に立つ民家のブロック塀に鼻から突っこんだようだった。身体に痛みは感じなかったが、手足は空気が抜かれたように力が入らなくなっている。
「まいったな……」と焦りつつ車外の様子に視線を泳がせると、横殴りの雨糸に煙る暗闇の中に真っ白い人影が見えた。純白のウェディングを着た若い女が、道の向こうに立っている。
ぎょっとなった瞬間、運転席の窓を叩かれ、けだものじみた声があがった。
振り向くと、傘を差した年配の男女がこちらを心配そうに覗きこんでいる。
「大丈夫か?」と聞かれてうなずいたが、それより事故を起こした原因のほうこそ話したかった。しどろもどろになりつつも「実は……」と切りだし、道の向こうに指先を向ける。
いない。伸ばした指の先では、雨糸が音を鳴らして暴れているだけだった。
その後、パトカーと救急車がやって来て、矢杉さんは病院に搬送された。
入院中に警察官から事故当時のくわしい状況を尋ねられたのだが、ありのままに伝えたところ案の定、怪訝な顔をされてしまう。
「信じてもらえないんでしたら雨でスリップしたとか、そういう理由でいいですよ」
落胆気味に提案すると、警察官は「分かりました」と答えたうえで、こんな話を切りだした。
「前にもあそこで事故が起きているんです。そっちは死亡事故だったんですが」
7年ほど前に若い女性がスピードの出し過ぎで、自爆事故を起こしているのだという。
言われてみれば、ニュースで見たような記憶がある。
退院してからまもなく、地元の知人に聞いた話によれば、自爆事故で死亡した女性というのは、結婚を間近に控えていたらしいという。
死亡現場には今でもブーケが供えられているという話も聞いたので、調べにいってみたところ、現場とおぼしき道端には、本当に白いブーケが横たわっていたそうである。
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